昭和45年10月29日 朝の御理解
御神訓 一、
「疑いを放れて広き真の大道を開き見よ。わが身は神徳の中に生かされてあり。」
わが身は神徳の中に生かされてあり。信心を頂いて、そういう神様の御神徳の中に生かされてある自分という者が分からされてくると。そこに信心の焦点というか、神様の願いというか、ここのところを私は分からせて頂く事だと思う。疑いを離れてと、疑ってはいない。けれども、信じきってはいないというのが、私は、多いのじゃなかろうかと思うですね。疑ってはいない。というて、ほんなら、信じきってはいないと。それでは、私はここのところが分からない。
神様は絶対のものであると、と信じられる。こちらの方が狂っておったり、間違っておるところに、おかげをおかげと感じきらず、また受け止めきらないという事になります。これがやはり、例えば、きれいな大きな泉水があると致します。けれども、その泉水に、お恵みの水が流れ続けて入って来なければ、もうその泉水は、どんなに立派であっても値打ちはない。どんなに立派にでけておっても値打はない 。
限りなく例えば水がそこへ流れ込んで来て、始めてその泉水の値打ちがある訳です。又は、地から湧くと言うか、湧き続ける泉水であって始めて、泉水なら泉水の値打ちがある訳です。ですから私どもはどうしてもやはり、おかげを頂き続けると言うかね、そのおかげを頂き続けるおかげを頂かなければ感じきらん。わが身は神徳の中に生かされてあり。おかげを頂き続けると。
それはわが身は神徳の中に生かされてあるのですから、おかげは、おかげの中に浸っておるのですけれども、そのおかげをおかげと感じきらん。どのような例えば、難しい事になっても、問題があっても、事に出会いましても、これ程に間違いのない働き、おかげを受けておる、その中に起きてくる事だからという。例えば、自分の上に起きてくる困った問題ひとつでもです。
それをやはり、おかげの中にあるんだという実感が出来てくる時に、私は、わが身は、神徳の中に生かされてあるという事が分かったというのじゃなかろうかとこう思う。自分に例えば、都合のよい事が、なるほど、おかげなのですけれども、都合の悪い事が起きてくると、それはおかげではないように思う。ほんなら全てがおかげなんだけど、おかげとしての実感がないのですから。
だから私共のどこを見ても、あれもおかげこれもおかげと、思わせて頂けれる、そういう狂いのない、間違いのないお働きを、感じとらせて頂く中に、例えば痛い事も、又、苦しい事も、又は、悲しい事も起きてくるのである。そういう間違いのない働きの中に起きてくる事であるから、全てを神様のおかげだなと分からせて貰える。そういう私はおかげを頂くという事が、わが身は、神徳の中に生かされてある事を、分からせて頂いた事になるのである。
広き真の大道を開き見よと。広き真の大道ですね大道を開き見よ。我身は神徳の中に生かされてある。信心をさせて頂いておると、やはり神様を疑う訳にいけない程しの神様を感じる。かと言うて、信じきってはいない、いわゆる半信半疑という訳なんです。それでは私は神徳の中に生かされてあるという実感は湧いてこないと思うですね。そこでやはりお恵みをその頂き続けておる。泉水の中に水が湧き続けておる。又はそのお恵みの水が絶え間なしに流れ込んでおる。そういうおかげを頂かなければならん。
世間には立派な人格と言うかね、財産と言うかそれが持っておる。財産も人格も持っておるけれども、お恵みが段々枯れて参りますとです、所謂神恩報謝の生活、神様のお徳の中に生かされてある信心の喜びを感じていく事が出来なくなってくる。どんなに例えば名門と言われるようなお家でもですもう水が枯れて参りますと、恵みが枯れて参りますと、そういう有り難い生き生きとした有り難いものが無くなってくる。
疑いを放れて、広き真の大道を開き見よ。御神徳の世界、又は、その真の大道というのが、余りにも大きくて広い。その為に私共は、神徳の中に生かされてある事を見失う。そこで私は、今日は広き真の大道という事でなくて、狭くてもいい。狭くてもよいから、お恵みに触れ続ける、おかげを頂き続けれる、私は生きた信心をさせてもらうところから、段々、その狭い道が広げられていくというおかげを受けなければならんという意味の事を、今日は申しておる訳です。
いわゆる、御利益ですね。御利益を頂き続けなければいけないというのです。これは、御利益の道と言うと、いうなら、狭い道かもしれん。けれどもやはり、その御利益を受け続けていきませんとですね、間違いなく神様のお働きを頂き続けておると感じさせて頂ける程しのおかげを頂き続けませんとです。例えて申しますと、まぁその日暮らし的な細々とした生活させて頂いておりましてもです。
その日その日が、なるほど、生かされて生きておるしるしだなというものを感じさせてもらう。このようにも間違いがない、神様のおかげを感じさせてもらうから、その中に起きてくる様々な問題も、御神意の中にある事だ、御神徳の中にある事だと信じられる。そこで例えば、疑う余地の無い程しに、いわゆる神様を信じきった生活が出来る。いわゆる安定した生活が出来る。安心の生活が出来る。
ほんなら安心の生活というのは、痛い事も辛い事も起こってこない事かと言うと、痛い事もありゃ辛い事もあるけれども、このように間違いのない働きを受けておるのであるから、その中に起きてくる事であるから、神様のお働きには、間違いがないのだと頂かせてもらうところにです。愈々広き真の大道と言うかね、広い範囲においての神様の働きを感じ取らせて頂く事が出来る。
先日、ある方が、娘さんの結婚の事でお伺いがあった。余りに先方、仲人さんがヤアヤア言うてもらいにみえる。それでお母さんとしては、よかりそうな人だから、娘もその気になってくれれば、ま、よいがという願いを持っておられる。ところが娘さんは、あんまりヤアヤア言われるもんだから、そんなに言うたってと言うて、何べんも何べんも来られる仲人さんに、なかなか返事が出来ない。
ところがしばらくして、又、仲人さんが見えてから、そういつまでも返事をしぶられるごたるならば、この縁談はないものにして、というような話になってきた。だからお母さんとしては、ほんとに良い縁談だと思うとったんですから、まあ惜しかった訳です。ところが、その娘さんが、ある、ボーイフレンドとでも申しましょうかね。の方がおられましてね、やはりあんまり、ふんぎりがつかなかった訳らしいのです。
ところが、それから何日か致しまして、その友達から、どこか旅行に行くように誘われた。そういう時ですから、本人は行きたいと思うたけれど、ともかくお母さん、親先生にお伺いをしてくれと、こういう事であった。それで、神様に私、お願いさせて頂いたら、それは行かんがよかろうという事であった。がま勤めの方へ行って、たとえば遊びに行くのは止めたが良かろうち言うことであった。
それから、二、三日してから、また先方から今度は見えた。まああんなに言いよったけれども、又、どうでもこうでもという事になってきた。その時にですね、その娘さんが、言うておる事ですよ。はぁもう本当に、親先生は見通しと言うたと言う。あの時にもし私が、こちらの方とデイトしておったらです、私の心は又、決まりかねておっただろう。けれども、そのような訳だったから。
今度は、向こうから言われてくるのに、ふんぎりがついたと言うか、それに返事をする事が出来た。まぁそこで、決まりの話が出来たというのであります。そういうような体験というのは、皆さんも、いつも頂いておられる事だと思うんですけれども、なるほど、そこに神様が見通しだということを感じ取らせて頂くところに腹が決まっておる。ですからこれは、まあ言うならば。
広き真の大道ではなくて、小さいそれは、おかげの道かもしれません。けれども、そこからね、神様を信じん訳にいけない働きというものが自分の心の中に起きてきて、そこから、段々、真の、本当の道を開いて、開き見ていく事が出来きるおかげを受けられる。だから信心をそのところでとどめたら、もうそれは、言うなら、惜しい話なんです。言うならば、神様が見通しだと。そういう事は、神様が恵み続けてござる世界という事にもなります。そういう中に私共が有るんだと。
私はもう我身は神徳の中に生かされてあるという事をです、実感しながらの日々。そこにはもう絶対の有り難いものが湧いて出てくる。心の底から自分の心の中から有り難いものが湧き続ける。だからおかげも又湧き続ける。立派な泉水があっても、おかげを頂き流れて来たり流れて来なかったり、湧いたり湧かなかったりという事では、もうその泉水の値打ちがないようにです。そこのところを頂き続けていく信心。
実感として、我身は、神徳の中に生かされてある。神様の懐の中にある自分。そこに生まれてくるのが、喜びであり、安心である。神様の、そういうお働きの中に、しかも間違いのない働きの中に、しかも神様が見通しぬいてござる世界に、私共が御恩恵を受けておるんだと分からせてもらうところから、いわゆる我身は神徳の中に生かされてあるという信心というか、喜びが頂けるのだと私は思います。
まあ、合楽に御神縁を頂いておる程しの人ですから、神様を疑うてかかっておる人はおりますまい。けれども、信じきっておるという事は、又、大変少ない。私共がこの疑いを離れて見ません、疑いを離れれる程しのおかげ、神様を信じきっていけれるおかげを頂いて参りませんと、真の大道に出る事は出来ん。これは、信心しておれば目に見えるおかげより、目に見えぬおかげが多いとおっしゃる。その目に見えぬおかげのところが分かっていく信心。御神徳に触れていく。この世の中は御神徳でいっぱいだと。
神様のお恵みでいっぱいだと。これは大変事実その通りですけれども、それは余りにも広い道であり、余りにも範囲が広いので、私共はそれを感受しきらない。けれどもほんなら御神徳を受けておる人の姿と言うか、受けておる人に接する事によってです、これは小さい範囲なんだけども、人間が受ける御神徳ですから、小さい範囲だけれども、なるほど神様がござるなぁ、なるほど。
おかげが受け続けていけれるなあ、という事が分かるという意味の事を、今日は申しましたね。例えば御本部参拝させてもらう。金光様のお姿に触れさせてもらう。いわゆる金光様の受けておられる、御神徳に触れる。御神徳に触れますから、そこに神様を信じなければおられない心が生まれてくる。これは小さい広き真の大道を開いたので、開き見たのではなくて、小さい範囲の、真の道を知った訳であります。
先ほど、その娘の縁談の事についてもそうです。私がお取次させて頂いた、その事によって、ほんとに先生は見通しだろうか、と思わせて頂くところに、そこに真の道を少しばかり、それに触れてみた訳なんです。金光様のお側に寄らしてもろうて、金光様の御神徳に触れさせて頂く事によって、神様を信じさせてもらう働きと言うか、そういうものが、心の中に感じとらせて頂けれる。
だから、御神徳を受けた人の姿を見たり接したりするところからです。間違いがないなというものを、私共が感じさせてもらう。それを今度は、自分の信心に、そこから真の大道を開き見らせてもらう。大きな道へ出らして頂く信心の稽古が望まれる訳です。そして、疑う余地の無い、このような大きな神様の働き、いわゆる、天地の大恩恵と、大恩恵に浴し続けておると言うのが、これは話を聞いただけでなくて、自分がそれを実感しなければならない事ですからね。
我身は神徳の中に生かされてある事を分からせて頂く為に、まず真の大道を開き見らなならん。ほんなら真の大道というものが話を聞けば、それはすぐ分かる事だけれども自分が実感として頂くのはやはりその徳に接しなければならない。その徳に接した所から、私は小さいながらも真の道が分かってくる。その真の道を言うならば踏み拡げていくと言うか。それをいよいよ、大きな広いものにしていくところから。
どのような場合でも、このように間違いのない働きの中にあって、このように間違いのない御神徳を受けた方の、いわゆる金光様のお取次を頂いて起きてきた事であるから、間違いがなかろうと、又、間違いはないという確信が段々出来てくる。お取次を頂いて起きてくる事は、良い事悪い事、全てが良いという実感ですかね。お取次を頂かずして起きてくる事は、良い事悪い事、全てが悪いといったような、本当に極端なお取次を頂いて分からせて頂く信心の世界。
お取次を頂いて分からせて頂く真の道というものが、そのようなものだという事をです、お取次の働きの中から、私共が頂きとめていかなければならん。そこに例えば、私共の信心は、それは細々とした、広き真の大道というところには出てなくてもです。いわゆる、お取次を頂いて起きてくる事であるから、良い事悪い事、皆良いと確信出来れる信心が成長してくるとこう思うですね。金光様の御信心を頂かせて頂くなら、せめてそこんところまでは、ひとつ頂きたい。
お取次を頂いて起きてくる事は、良い事悪い事、全てが良いのだという実感、それを信じさせてもらえれるおかげ。お取次頂いて、自分の思うようにならなかったと思うておるけれども、いやこれも必ず良い事につながるのだと。必ずおかげにつながるのだと、信じさせてもらえれる信心。そこに恵まれた信心。言わば、お道の信心にあやからせて頂いておる信心の値打ちがあるのじゃないかというふうに思いますね。
どうぞ。